仮説実験授業研究会

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仮説実験授業の基礎にある哲学  (前 会代表:板倉聖宣)

 仮説実験授業を提唱したのは,1963年の夏のことでした。ですから,今年はそれから38年ほど(2001年当時)になります。そこでその間に「仮説実験授業はどのように発展して,どんな成果を挙げえたか」ということを報告したいと思います。最近は〈たのしい授業〉という言葉のほうが優勢ともなっていますが,〈たのしい授業〉はもともと仮説実験授業が生みの親として生まれたものなのです。
 それでは,仮説実験授業というのはどんなもののことを示すのでしょうか。
 一口にいうと,仮説実験授業というのは,
1.科学的認識は,対象に対して〈仮説・予想〉をもって意識的に問いかける〈実験〉によってのみ成立する。
という認識論的な考え方と,
2.科学的認識は社会的な認識であって,個々の人間が仮説実験的に確かめた事柄を越えた認識を目指すものである。
という科学論を元にした授業理論ということができます。
 もっとも,上の1,2は科学一般に通ずるもので,教育論・授業理論とは言えません。そこで,この考えをとくに教育に適用した授業論として,とくに重要なのは,
3.授業には,各クラスの教師と生徒の個性を越えた法則性があって,個々の教師の作成した思いつき的な教材で授業するよりも,他のクラスで成功した授業プランで授業したほうが成功するのが普通である。
という授業論ということになります。
 私が1,2の「認識論と科学論」に達したのは,私の大学生時代(1949〜1953)のことで,いまから50年ほど前のことです。私は,まず「〈「社会の科学に階層性があって当然〉という議論は,仮説と真理とを混同したものに過ぎない。社会の科学でも実験によって真理が決まるはずだ」と考えて「実験」概念を拡張し,さらに1953年3月までに『天動説と地動説の歴史的発展と論理構造の分析』という論文をまとめて,やっと上のような認識論と科学論に到達することができたのです。
 しかし,一度そういう結論に達してしまえば,「こんなことは,先人たちはずっと前から承知のことに違いない」と思えることでした。それは,「物質不滅の法則」とか「エネルギー不滅の法則の原理」といったものが,「改めて主張するにはあまりにも当たり前すぎる」と思えるのとおなじことと言えるでしょう。しかし,私がその考えと3の授業論をもとに仮説実験授業を提唱した結果,とても大きな成果が挙げられました。そこで,「どうもこのような認識論と科学論と授業論とは,私が初めて明確にしたことだ」と認めざるを得なくなったのです。

■仮説実験授業はなぜ〈楽しい授業〉を保証しえたか
 上の仮説実験授業の基礎理論の1からすると,「人間は予想しなければ正しく認識しえない。疑問の余地が残る」ということになります。そこで,仮説実験授業は「問題→予想・仮説→討論→実験」の反復を中心とした授業形態を生み出し,「一人ひとりが予想をたてて討論に参加する」ことを可能にしました。
 また2からすると,「科学の教育は集団的な授業によってもっとも効果的に達成できる」ということにもなります。そこで「集団的な授業」と「その中の一人ひとりの予想・仮説」が重視されることになります。また「自分たちが信用しうることは,いちいち自分自身で実験しなくても,人類共通の財産として,そのまま受け入れてもいい」ということにもなります。そこで,「科学読み物」を重視するようにもなっています。
 それなら,〈自分たち自身で実験して確かめなければならないこと〉と,〈そんな手続きをふまずにそのまま受け入れていいという事柄〉とは,どのよにして区分けできるのでしょうか。それは,「その生徒たちがどう考えるか」によってきめるほかありません。これはまったく生徒本位の考え方ということになります。だから,仮説実験授業は「原理的に生徒本位」とならざるを得ないので,仮説実験授業が楽しい授業となるのは当然のことと言っていいのです。
 仮説実験授業以前の理科教育の理論では,かたくなに「自分自身で実験して確かめたこと以外のことは信じてはいけない」と考えたりしてきました。そこで,いちいち実験して確かめるまでもないようなことまで実験させる結果になって,かえって退屈な授業を押しつける結果になったのです。その点,仮説実験授業は,〈子どもたち自身がそのまま信じられること〉と〈そうでないこと〉とを分けることによって,終始子どもたち本位の立場を築くことに成功したのです。
 また,仮説実験授業では,最初から子どもたち一人ひとりに問題を与えて,予想・仮説を選ばせる授業をするわけですが,そういう授業を成立させるためには,子どもたちが授業のごく初期の段階で,その教材が〈学ぶに値するものだ〉と気づかせる必要があります。だから,仮説実験授業は「文部科学省の学習指導要領や検定教科書」に準拠した授業にはなりえないのです。仮説実験授業の授業書は,文部科学省の学習指導要領や検定教科書よりも,実際に授業を受ける生徒たちの興味関心を元に作成せざるをえないので,「それが楽しい授業になるのは当然のこと」と言っていいわけです。

■「授業書」概念の明確化による授業科学の確立
 上の3の授業理論は,1の認識論や2科学論とは独立に成立する命題です。「授業には明らかに法則性があって,これを教材にすれば,誰がやってもほぼうまくいく」ということは,たいていの教師が気づいていることです。しかし,仮説実験授業の場合は,それも1,2と結びついています。
 授業に法則があっても,教師一人ひとりの努力では,その法則性を完全にとらえることは困難です。そこで,授業の法則を明らかにするためにも,1の認識論と2の科学論が重要なものとして浮かび上がってきます。それで私は,仮説実験授業の実現のために「授業書」というものを作成することにしました。そうして,多くの教師が間違いなく楽しい仮説実験授業を実現することができるようになったのです。そこで,「教科書とは異なる〈授業書〉を作成して授業の研究を進める」という研究の進め方を確立したことが,仮説実験授業研究の第一の成果であると考えています。
 しかし,仮説実験授業の提唱当初,もっとも不評だったのは,「〈授業書〉を作成して授業を進める」というやり方でした。エリート意識をもった教師たちは,「自分にしかできない授業」を理想としていて,「教案・教材を編成するのは教師一人ひとりの権利であり義務であるのは自明である」と考えていたからです。
 仮説実験授業の授業書というのは,明らかにそのような考えを全面的に否定するものだったのですから,多くの反発があっても仕方ないことでした。それは,いわゆる「産業革命時代」に次々と新しい機械が発明されて,それまでの熟練工の活躍する余地を大きく制限したとき,熟練工たちが〈機械打ち壊し運動〉を展開した歴史と似ています。
 それなら,機械打ち壊し運動ならぬ授業書排斥運動をしたくなるような「教師の創意の問題」はどう考えたらいいのでしょうか。その問題はあとでふれることにしますが,結果的に言って,今では仮説実験授業の考え方の正しさが広く認められている,と言っていいでしょう。「仮説実験授業が著しい成果を挙げたので,多くの人びとは授業書というものの意義を認めざるを得なくなっている」と言っていいのです。そこで今では,仮説実験授業研究会以外にも,〈授業書〉の作成作業をする人びとが現れています。原理的にいうと,授業書概念というのは,仮説実験授業の考え方がなくても出来うるものです。だから,それらの動向は嬉しいことです。しかし,授業書もまた法則性を問題にするのですから,仮説実験授業の基礎になっている認識論・科学論を無視しては,効果的に成果を挙げられない結果になっているようです。
 〈授業書に対する信用〉が確保できたのは,私たちが「確かな成果を挙げうる」と保証できるものだけを〈授業書〉と呼び,その他の〈授業書まがい〉のものと区別するよう努力してきた結果である,ということにも注意を払う必要があるでしょう。
 「確かな成果を挙げうる」と保証できるものだけを〈授業書〉と呼ぶという考え方は,とても排他的な考え方と解されることが少なくありません。しかし,「社会的な存在としての科学はもともと,真理以外のものを激しく排除してはじめて成功した」ということを忘れてはならないでしょう。科学はときとして,きわめて厳しいのです。仮説実験授業はそういう「科学の組織論」も踏まえてできていることを忘れてはなりません。

(続きはぜひ書籍『仮説実験授業をはじめよう』(仮説社)でご覧ください!)

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